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過去に発売した『ドラゴン桜』の公式副読本「16歳の教科書 なぜ学び、なにを学ぶのか」(講談社)が文庫版となって4月21日に講談社+α文庫より発売した!まだ読んだことがない人も多くいるのではないだろうか。
本書は国数英理社+課外授業としてその分野のスペシャリストが講師となって、人生に効く特別講義を載せたものとなっている。
発売を祝して一部ためし読みとして、前回、理科の特別講師として科学作家・竹内薫氏の授業を公開した。
 今回は社会科の特別講師として藤原和博氏に授業を行ってもらった。藤原氏は、以前、東京都で初めて民間出身として中学校校長を務めた人物である。(※2008年に人気満了により、杉並区立和田中学校校長を退任。)本編では、社会における正解(共通解)がなくなったいま、自分の知識や経験を組み合わせて、自分なりの答えを導いていく「情報編集力」が必要と語る。さあ、人生を変える大人の勉強をはじめよう!


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社会科の特別講師・藤原和博氏

「よのなか科」とは?

僕は現在(2007年当時)、東京都の杉並区立和田中学校で、校長先生をやっています。
 東京都の公立中学校で初めて民間出身の校長となったことで、いろいろと話題になりました。
 でも、僕のことをそれ以上に有名にしたのは、「よのなか科」というまったく新しい教科の授業でしょうね。これは和田中学校の校長に就任する以前から実践しているものです。そこで最初に、この「よのなか科」という授業について、簡単に説明していくことにしましょう。
 まず、「よのなか科」とは、特定の知識を教えるものではありません。
 知識よりももっと大切な、生きるチカラを学んでいくための授業であり、学校で教えられる知識と実際の世の中との架け橋になる授業です。
 たとえば、「よのなか科」でもっとも有名な授業テーマは、「ハンバーガー店の店長になろう」というもの。
 この授業では、まず生徒たちに見知らぬ土地の地図を手渡します。
 そして「もしもきみがハンバーガー店の店長だったら、どこに出店する?」と尋ねる。つまり、「どこに出店したら、いちばん儲かるか」を考えさせるわけ。
 当然、「人通りが多いところがいいんじゃないか」ということで駅前を探すんだけど、駅前はもう土地が埋まっていて出店できない。
 じゃあ、どうするか?
「ドライブスルーで立ち寄れるように、大通りに面したところがいい」
「ここに大きな病院があるから、このへんはどうだろう?」
「いや、ハンバーガー店だから、若者が集まる大学の前がいい」
「でも、大学は夏休みに学生が消えてしまうよ」
 まずは自分で考えて、今度はそれを班のみんなで意見交換して、試行錯誤しながら意見を進化させていく。
 そして今度は、仮に駅前に出店できたとして、どれくらいの売り上げが見込めるか考えてみる。
 ここで考える要素は次の4つ。
(1)その駅の一日の乗降客は何人くらいだろう?
(2)100人の通行人に対して、何人くらいのお客さんが入店してくれるだろう?
(3)お客さん一人あたり、いくらくらいの金額を使うだろう?
(4)このお店の売り上げは一日いくらくらいだろう?
 僕のやっている「よのなか科」では、このうちすべての前提となる(1)について、授業中、その駅に電話をかけさせます。
そして駅員さんに、実際の乗降客数を聞くんです。
 もちろん、これだけではありません。
 その後は流行る店と流行らない店の違いを考えたり、ハンバーガーの原価を予想してみたり、店舗を運営していくための経費(人件費や家賃、光熱費など)を計算してみたり、ハンバーガーの原材料(牛肉やレタス、パンの小麦粉など)がどこからやってくるのかを学びつつ、ハンバーガーが安い理由を考える。
 そこから貿易について学び、円とドルの為替相場のしくみまで学んでいく。
 つまり「一個のハンバーガーから世界が見える」というのが、この授業のテーマなんだよね。
 ほかには、建築家のロールプレイというのもあって、ここでは将来自分が住みたい家をデザインすることからスタートする。
 それから実際に建築家の先生を招いて、その図面を講評してもらう。建築家たちが実際に設計をするとき、どんなことを考えながら、どういうふうに設計していくのかを学ぶ。そして最終的には、
「子どもに個室を与えるべきか?」
「子ども部屋にカギは必要か?」
「子ども部屋にテレビは置くべきか?」
 といったことまで考え、みんなで議論してもらう。
 こういうシミュレーションとロールプレイを重視した実践的な授業が、「よのなか科」なんだ。

現代社会の諸問題を考える

最初は「ハンバーガー店の店長」や「自分が住みたい家」といった、比較的軽いテーマからスタートする「よのなか科」の授業。
 でも、後半になってくると、これまでの学校教育ではタブーとされてきたような現代社会の諸問題に深く突っ込んでいくようになります。
 たとえば「殺人を犯した少年をどう裁くか」という授業。
 これは少年法の意味や必要性を考えながら、弁護士ロールプレイ、検察官ロールプレイを含んだ模擬裁判までやってもらいます。
 また、少子化の問題。これもただ知識として少子高齢化を教えるんじゃなくって「将来、自分が結婚したら」、そして「もしかすると離婚するかもしれない」という前提で、少子化問題を考えていく。
 それから、「人のいのち」の問題。
 この授業では、自殺志願者とそれを止める説得者のロールプレイをおこなってもらいます。さらに、安楽死の問題に対しても、生徒たちに肯定的な意見と否定的な意見を出してもらい、ディベート(討論)していきます。
 あるいは、ホームレス問題を考える授業では、新宿から本物のホームレスの人に来てもらう。僕の友人でホームレス支援の活動をやっている人間がいて、彼に協力してもらって。これはもう6年間やっている授業です。
 この授業なんか、完全に異世界との遭遇だよね。
 先日来てもらった人は、65歳の男性で、中学を卒業したあとマグロの遠洋漁業を十数年やって、そこから流れ流れて新宿でホームレスになった、という人でした。
 そして最初は彼を登場させないで、「ホームレスってどんなイメージ?」みたいなことを聞くわけです。
 そうすると「臭い」「汚い」「駅で寝てる人」「やる気がない」といったマイナスイメージばかり。男の子の中には「社会のゴミだ」とか「排除してしまったほうがいい」みたいなことを言う生徒も出てきます。
 続いて、本物に登場してもらう。
 ところが先日の授業では、そのホームレスの男性が感極まっちゃって、生徒たちの前でいきなり泣き出してしまったんですよ。もちろん、生徒たちはものすごいショックというか、インパクトを受けていた。
 でも、実際にホームレスの人に登場してもらうと、それまでの一方的なマイナスイメージが変化するんですね。
 自分がどれだけ偏ったイメージで物事を観ていたのか、よくわかってくる。それが理解できるだけでも、意味のある授業だと思います。

「正解がひとつではない課題」に取り組む

 ここで大切なのは、「正解がひとつではない課題」に取り組んでいくこと。
 これはちょっと難しい話になるんだけど、戦後の経済復興から高度成長期までの間は、工業を中心とした産業化の時代でした。
 いわば、「成長社会」という段階です。
 この時代の教育現場では、「早く」「ちゃんと」「いい子に」という3つがいちばん大事な価値観だったんだよね。
 早くしなさい、ちゃんとしなさい、いい子にしなさい。これは親も教師も、地域社会の人たちも口にしていた言葉です。だって、産業界ではそういう人間が求められていたわけだからね。
 そして産業界には「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと標準的に」といった万人にとっての「正解」があった。
 でも、21世紀の日本は十分に成長しきった「成熟社会」です。
 そこでは「これをやっておけば大丈夫」という、誰もが認める正解なんかありません。
 だって、個人の価値観がバラバラになったんだからね。
 IT長者をめざしてガンガンに働く人もいれば、のんびり気ままにフリーター生活を送る人もいる。娯楽ひとつとっても、プロ野球にJリーグ、それからメジャーリーグやNBA、欧州サッカーまで自宅で観戦できる。紅白歌合戦の裏では格闘技が中継される。
 こうやって価値観が多様化してくると、たったひとつの正解はなくなってくる。これは社会全体がそうだし、企業の中でもそう。家族の中でさえもそうなんです。
 だから、ハンバーガー店の店長になる授業でも、「正解はこれだよ」なんてことは教えません。
 どこに出店するのがベストなのか、それは実際にやってみないことにはわからない。また、どうすればお店が流行るのかということにも、正解なんてないんだ。
 もっとも、正解がないというのは、生徒も教師たちもかなり戸惑うこと。
 年30回の授業のうち、最初の2〜3回は生徒たちもかなりイラつく。僕がなにも答えらしきものを出さないことにね。そして僕と一緒にチームで教える教師たちにだって、ほんとうにこれでいいのか、といった迷いがある。
 また、2年間で3000人くらいの教育関係者たちが全国から研修・見学にくるんだけど、「それでいいんでしょうか?」という質問はよくあります。
 でも、子どもたちはすぐに慣れてくれますね。
 30回のうち10回くらいはディベート、10回くらいは本物のゲストがくるんですけど、まずディベートを好きになってくれる。
 実際は男の子なんて、5回目、6回目くらいまではしっかり自分の意見を言えない。
 意見はあるんだけど、しっかりした文章にならないんで、発言しちゃいけないと思って自制する。これまでずーっと正解主義できているから、正解が出るまでは言葉にしちゃいけないと思っている。
 そうすると、おしゃべりが大好きでコミュニケーション能力に長けた女の子たちには敵わないんだよ。
 だから「よのなか科」では、まず書かせるんですね。
 書かせたものを先生が見て回って、「これ、読むのでもいいから発表してごらん」と促す。「単語が3つくらい並んでいればいい。それをあとで文章にすればいいから」って勇気づけると、どんどん書けるようになるし、口に出せるようになっていくんです。

「情報処理力」と「情報編集力」

さて、正解がひとつしかない問題を前にしたときに必要とされるのは「情報を上手に処理する力」、つまり「情報処理力」です。
 これはジグソーパズルを組み合わせていくような能力のことで、パターンさえ覚えてしまえばパパパッとできるようになる。
 じゃあ、正解がひとつではない問題を前にしたときに、いったいどんな力が必要とされると思う?
 まず、自分の知識、技術、経験を総動員して、それらを組み合わせ、自分なりの答えを導いていく力が必要になってくる。ここで導き出すのは、すべての人にとっての「正解」ではなく、あくまでも自分なりの「納得解」。
 この力のことを僕は「情報を編集する力」、つまり「情報編集力」と呼んでいます。
 正解主義の情報処理力とは、決められたパターンを決められた場所に埋めていく、ジグソーパズルのような能力のことだったよね。
 これに対して、情報編集力はレゴブロックで遊ぶときの能力なんだ。
 つまり、自分の手で組み合わせ、自分でなんらかの形をつくりあげていくような能力のことだとイメージしてください。
 じゃあ、これが受験と関係あるのか?
 大いに関係あるんだな、これが。
 この点について、僕はいまでも鮮烈に覚えている東大の入試問題があるんだよね。
 それは、自分自身の受験のときに出た東大の地理の問題で、1問目がいきなり「アフリカの地図を描け」という問題だった。
 もともと地理というのは、中学では国や地域と特産品なんかを勉強するものだよね。それで高校になると、そこに政治と経済が少し絡んでくる。だから、典型的な暗記科目というイメージがあると思う。
 そこにいきなり「地図を描け」というのは衝撃的だったな。
 しかも、この問題が素晴らしかったのは、地図を描くだけでなく「赤道も描き入れなさい」と指示されていること。
 やってみればわかると思うけど、アフリカ大陸ってぼんやりとはイメージできるんだけど、なかなか正確な形はわからないものなんですよ。
 そして赤道というのは、思った以上に下のほうにある。ちょうどケニアのあたりで、アフリカ大陸北西部の膨らんでいるところより、ずっと下なんだよね。
 もちろん、アフリカ大陸の海岸線をすべて暗記しているやつなんていません。出題者は、そんなことを期待しているワケじゃない。だからこれは、厳密な意味での正解が問われていない問題なんです。
 要するに、「この出っ張りが描けていたら何点」「この窪みが描けていたら何点」という世界で、要素どうしの〝関係〟でアフリカ大陸の本質が捉えられているか、という話なんだ。
 だから赤道を描けというのは、ほんとうに素晴らしい着眼点ですね。
 地図だけならあいまいにごまかせたものが、赤道というものが出てきた途端に、問題の意味が変わっちゃう。
 しかも、そのうえで「タンザニアはどこか、そしていまタンザニアで問題になっていることはなにか」みたいな問題が続くんです。
 これなんかは、半分以上が「情報編集力」に関わってくる問題じゃないかな。

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ひとりで解決しようとしないこと

「よのなか科」の授業では、ひとりで考えたあとに、必ずグループで考えるようにしています。
 これを僕は「ネットワーク脳」と呼んでいるんだけど、これからの複雑な成熟社会では、ひとりの中から出てくる知識だけでは勝負できないんですよ。どれくらい多くの「できるやつ」を動員できるか。そこが勝負なんです。
 たとえば、「藤原和博」というブランドネームの背後には、僕の脳につながったネットワークが500人くらいいる。たいがいの課題はこのつながりによって解決できちゃうんだよね。
 だから、もしも僕がネットワークをもたないひとりきりの人間だったら、「よのなか科」もなにもできない。自分の知識と技術と経験だけで勝負しても、ダメなんですね。
 ところが、学校って正解主義で9割は正解を教えられるよね。
 しかも「カンニングするな」と言われる。
 すると、みんなひとりっきりで正解を出さなきゃいけないと信じることになる。
 でもね、実際に社会に出たときに、ひとりっきりで正解を出すなんてことはムリなんだ。それでみんな、社会に出てから戸惑ってしまうんだよ。
 中高生には、いや、大人の人にも「あなたの実力の半分は他人の力で成り立っているんだよ」ということをわかってもらいたい。
 ひとりで解決することの問題点をもうひとつ挙げてみよう。中学や高校の時期には、ほとんどの人にアイデンティティの危機が訪れるんです。
 小学校のころはみんな仲良くて、いつも一緒に遊んでいた。どこまでもみんな一緒に行けると信じてね。
 ところが中学に入るころには、友達の成績優秀な誰かが、私立の中学に行くことになる。
 公立中に進んでも、高校受験では、みんなバラバラの高校に進むことになる。
 そこでアイデンティティの危機が訪れる。ものすごい不安に襲われる。
 親御さんも、どう扱えばいいかわからない。「今度の英語の先生はどう?」と聞いても、「まあまあ」くらいの答えしか返ってこない。「発音は上手?」「フツウ」、「教え方は?」「関係ネエじゃん」。面倒くさくて自分の部屋に閉じこもっちゃうでしょ。
 親との会話なんか「まあまあ」「フツウ」「関係ネエじゃん」「ビミョー」の4つくらいで片づけちゃうんだよね。だから親御さんはオロオロしちゃう。
 それで、自分でもどうしたらいいかわからないんですよ。
 親や先生から「もう中学生なんだからできるだろ」と言われる。自立せよとか、自主的に、とかね。
 その一方では「まだ子どもなんだから夜遊びしちゃいけない」とか「中学生のくせに」とか、まったく反対のことも言われる。
 子どもなんだからダメだと言われる一方で、大人なんだからやれるでしょ、と言われる。これは「ダブルバインド」というんだけど、とんでもなく苦しい状況だね。
 だからね、誤解を承知でいえば、この中高生という時期に「死んでしまいたい」と思うくらい悩むのも、不思議はないんです。この時期には、魂がグラグラ揺らぐ。それで視野がググーッと狭くなって、周りが見えなくなって、いっそ消えてしまったほうが楽かも、なんてことも思う。
 だから僕は自殺をテーマにした「よのなか科」の授業の中で、「行き詰まってしまうこともあるよ」と生徒たちに教えている。
 それで、「もし、自分が心理的な視野狭窄に陥ったら、八割方うつ病だと疑え」と指摘しています。「自力で解決しようとするな。病気かもしれないんだから医者に行け」と。なによりもよくないのは、ひとりきりでも「正解」が出せると思い込むことだから。

ナナメの関係をつくろう

でも、実際に「よのなか科」が導入されている学校は、まだまだ少ない。これを読んでいる読者の大半は、そういう授業を受けられる環境にないと思う。
 そこでどうすればいいかといったら、なにより大事なのは良質な「遊び」ですね。
 ロールプレイなんて言葉を使ったら、なんだかカッコイイ感じがするかもしれないけど、結局は「○○ごっこ」の延長なんだ。だから、女の子の「おままごと」だって家族ロールプレイだし、お母さんロールプレイだよね。お父さんは誰で、このお人形が娘で、こっちのぬいぐるみがペットで、といったことを設定する。そういうロールプレイの中で、女の子たちは自分自身の居場所を見極めていくところがあると思う。
 また、男の子たちがやっていた「戦争ごっこ」や「忍者ごっこ」も似たようなものだよね。こっちはロールプレイというよりもシミュレーションゲームに近いけど。
 だから、田舎でこういう遊びをやっていた子ほど、じつは将来、有利なんだ。
 都会にいると、この種の遊びってすごく難しいから。ひとり遊び、テレビゲームはできるんだけど、他人との〝関係〟の中で遊ぶことができていない。だから、これから都会の子どもたちは、「情報編集力」をどんどん失っていくのかもしれないね。
 他人との〝関係性〟の中で役割を演じながら学ぶというのはすごく大事なことで、「ナナメの関係」が豊かかどうかということにも関わってくるんだよ。
 人間は「親/子」や「教師/生徒」といったタテの関係だけで学ぶかといったら、そうじゃない。友達どうしのヨコの関係だけでもない。
 タテでもヨコでもない、ナナメの関係というのが、とても大切なんだ。
 いま塾が人気なのも、塾の先生というのは親でも教師でもない、ナナメの関係だからなんだよね。人生的にもインパクトがあったり、教訓めいたセリフでも、へたすると学校の先生が言うよりも塾の先生が言ったほうが効いたりする。
「正解をたくさん記憶せよ」という「情報処理力」のほうならタテの関係からでも教えられる。
 でも、それ以外の例外事項については、異世代間のナナメの関係から学ぶ以外ない。これはコミュニケーションの一般原則で、たとえば会社でもそうなんだけど、同じ説教を職場で上司から言われるよりも、飲み屋で先輩から言われたほうがよっぽど聞く耳を持つでしょう(笑)。
 だから僕は、人間の人生って、この「ナナメの関係」がどれほど豊かであるかによってかなりの部分が決まると思っているんです。
 自分の本当の兄弟じゃなくていいから、相談できるお兄さんお姉さん、おじさんやおばさんでもいい、おじいさんやおばあさんでもいい。親や先生じゃない、人生の先輩たちとの関係。
 ただ、いまの子どもたちは異質な世界を避けて、あまり触れたがらないよね。みんな同質の仲間ばかりが集まって、仲間どうしでつるんで、家に帰ってからもケータイでメールして、パソコンでもチャットして。薄っぺらいチャットコミュニケーションが流行ってしまっているから。
 ケータイが登場してからは、なんとなくケータイによってつながっているという幻想がジャマして、そこから一歩踏み出す動機づけが難しくなっている。
 だから、高校や大学に行ったら、できるだけバイトをやるべきだと思う。
 できれば同世代の人間ばかり集まるバイトじゃなくって、異世代の人間が集まるところ。そしてみんながバリバリ働いている最前線。そうでもしないと、地域社会が壊れちゃった都会では「ナナメの関係」なんか築けないからね。

生きるためのバランス感覚を

これは講演なんかでも必ず言ってることなんだけど、僕は、中高生のうちに身につけておいてもらいたいものがふたつあります。
 ひとつは「集中力」で、もうひとつは「バランス感覚」。
「集中力」については、「大人になってから集中力を鍛えました」という人に、僕は会ったことないんですよ。会社に入ってから、これこれこういうトレーニングを積んで集中力を高めました、という人には会ったことがない。
 まず、どんな人でも、ある分野で成功していたり、ユニークな仕事をしている人というのは、百パーセント集中力がある。これはもう話していればわかる。
 そして彼らの集中力というのは、絶対に小中高のうちに身につけている。この期間で身につけなければ、一生身につかないんじゃないかとさえ思う。
 受験勉強というのは、集中力を身につける、またとない機会なんだ。
 いっぽう「バランス感覚」というのは、ちょっと説明が難しい。
 いまの子どもたちって、世の中と自分との関係について、うまくバランスがとれてないんですよ。周囲の人間との関係も、物事との関係も。
 冗談みたいな話なんだけど、転んでも手をつかないで、そのまま顔から倒れて鼻を折ったりする。サッカーボールを蹴って骨折したりね。こういう話って、漫才のネタだとばかり思ってたんだけど、実際に教育現場にやってきたら、そういう子がいるんですね。
 要するに周囲の物事と自分との「関係性」に揉まれてない。
 たとえば、外に出て戦争ごっこをやってた連中は、どのへんから飛び降りたら大丈夫だけど、どこから飛び降りたら危険だ、といったことが遊びながら身についてるよね。
 転び方にしても、砂場で相撲やプロレスごっこをやっていれば、受け身なんてものを習わなくても自然と身につく。
 そうした体を使った経験が圧倒的に不足しているんですね。これって、単に平衡感覚の話をしてるんじゃないんだよ。
 たとえば、子どものころってアリを踏んづけたり、バッタの頭を引きちぎったり、そういう残酷なことをよくやるよね。
 最近の大人たちはそういうことを禁止する傾向が強いかもしれない。でも、僕は昆虫たちの尊い犠牲のうえで、子どもたちは「命」の勉強をしてるんだとも思っている。
 たとえば、バッタの頭を引きちぎる。ちょっとだけ気持ち悪い。それで、もう少し大きなバッタの頭を引きちぎる。もっと気持ち悪いし、罪悪感も出てくる。そういう経験を重ねていくと「これ以上はできない」という一線を自分の中に引くんですよ。
 そういう一線ができれば、絶対に猫なんかにはいかない。
 昆虫たちで学んだ「気持ち悪さ」の経験のないヤツが、いきなり猫にいったり、あるいはもっと極端に走ったりするんだ。
 もちろん、こうした自然との関係性が欠けてくると、対人的な関係性にも大きな影響が出る。ちょっと仲良くすると妙にベタベタしてくるとか、少し冷たくすると、もう絶縁状態のようになるとか。間とか距離感みたいなものがなくなって、ベタベタしてるか、離れているかだけの人間関係になってしまう。きっと、ストーカーなんかの問題も、そこに原因があるんじゃないかな。

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夢よりも大切な「クレジット」

大人たちはよく「夢をもちましょう」みたいな話をするよね。
 それで子どもたちにも「夢をもたなきゃいけない」というプレッシャーがかかる。
 さらには「自分が成績が悪いのは、将来の夢や目標がもてないからだ」なんて勘違いするヤツもいる。
 でも、僕は夢なんかいらないと思う。むしろ「夢をもたなきゃ症候群」みたいなものは、逆に危険なものだとさえ思う。
 まず、技術と経験の積み重ねがない「夢」など、しょせん「幻想」にすぎないでしょう。
 たとえば、イチロー選手のような非常に特殊な育てられ方をした人、はじめっからプロ野球選手になるんだと決めていて、しかも実際にプロ野球選手になって、さらにあれだけの大選手になってもなお他人の何倍も努力して……だなんて、こんな人は珍しいというか、プロ野球の世界にさえ、彼以外ほとんどいないわけですよ。
 あるいは、考古学者の吉村作治さんの場合だと、小学生のころいじめを受けて、教室に居場所がなくて図書室に逃げ込んだ。
そこで出会った一冊が『ツタンカーメン王のひみつ』で、そこから考古学への道に進んでいったというんですね。これはとても感動的なストーリーなんだけれども、僕はものすごい稀有な例だと思っている。
 人間って、技術と経験を積んでいけば、階段を上るようにして自分の視点が高くなっていくでしょう。そして、見える世界が変わってくる。夢だの目標だのは、そこから先に考えても、全然大丈夫なんだ。
 じゃあ、夢も目標も見えないのに、なんのために勉強しているのか?
 なんのために働いていくのか?
 そして、なんのために生きているのか?
 僕は「クレジットを高めるため」という言い方をしています。
 クレジットというのは、他人からもらえる信頼や共感、信任の総量のこと。
 もし、クレジットという言葉がわかりにくければ、ロールプレイングゲームの「経験値」みたいなものだと考えてもらっていい。
 要するに、外に出て、闘って、経験値を上げていかないと、賢者にも会えないし、魔法も使えないし、勇者の剣も見つからない。もちろん次のステージにも行けないし、大ボスのドラゴンも倒せない。お姫さまを救うこともできない。
 だから、クレジットが低いままというのは、ずっとレベル2とかレベル3で、こん棒を武器にスライムと闘っているようなものなんだよ。「できること」がものすごく限られていて、ちっとも面白くないの。
 でも、クレジットが高まると、他人からアクセスされるようになるし、アクセスできるようにもなる。そうすると他人の力を使えるようになって、より的確な納得解が得られるようになるんだ。
 そうやってクレジットを高めることを先にやってから、夢を抱くほうがずっといい。
 だって、クレジットが高まると、思ったことはほとんど実現できるようになるんだよ。ことさら夢だなんて言葉を使う必要もない。ものすごく自由度が高まっていく。そういう生き方のほうが、普通の人にとってはいいんじゃないかな。
「もっと大きな夢をもちなさい」とか「いまどきの若者は夢がない」とか、大きなお世話だよね、そんなこと。

テレビとケータイを切る勇気を

僕が受験勉強で得たものは、ふたつある。
 ひとつは戦略性。全部覚えることなんて到底無理なんだから、どこに絞るかということがポイントになる。
 人間って、「やることを絞ろう。時間も能力も限られているんだから」と気がついたとき、はじめて戦略的になれるんですよ。限られた時間の中、自分の労力をどこに注いでいくか、真剣に考えることができるようになる。
 それで、自分が練り上げた戦略を貫くには、集中力が必要になってくる。特に僕は、まともな受験対策なんて最後の半年だけだったから、とてつもない集中力を要したんだ。
 だから、僕は大学受験によって集中力という「剣」を手に入れて、戦略性という「盾」をもゲットした感覚があるな。
 じゃあ、具体的に、これからみんながどうやってそれを手に入れるか?
 答えは簡単で、中学と高校ではテレビの時間を制限することと、ケータイの使用を徹底的に制限すること。……こんな結論だと、みんなに嫌われちゃいそうだけどね。
 だって、テレビってものすごく面白いでしょ。ケータイだって必需品だ。
 でも、それほど面白いものを「自分の意志で制限する」ということができれば、その後の人生でのライフマネジメントに大きな影響を及ぼすに違いない。人生をマネジメントする力になる。面白いバラエティ番組をやっているときでもダラダラ見てないで、スイッチを切るという勇気や潔さが、社会に出たときの決断力として利いてくる。
 ケータイにしても、ダラダラ待ち合わせしないで「土曜日の1時に渋谷ハチ公前」って決断する。それで、当日はなにがあっても1時前に駆けつける。
 これは、社会に出てからなにより大事なタイムマネジメント能力になる。時間管理や自己管理能力につながっていくんだな、これが。
 絶対、中高生のうちに鍛えたほうがいいよ。
 そして、テレビやケータイを制限すると、自然と別のコミュニケーションを求めるようになるでしょう。それで気がついたときには、自分の周りに以前よりはるかに豊かな「ナナメの人間関係」ができてくるはずだから。

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    藤原 和博(ふじはら・かずひろ)

    1955年、東京都生まれ。元・杉並区立和田中学校校長。1978年東京大学経済学部卒業後、リクルート入社。1996年より年俸契約の「フェロー」となる。2003年、東京都で民間人初の公立中学校長に就任。主な著書に『世界でいちばん受けたい授業』(小学館)『公教育の未来』(ベネッセコーポレーション)、『人生の教科書〔よのなかのルール〕』(宮台真司との共著/ちくま文庫)、『校長先生になろう!』(日経BP社)

■書籍紹介
『ドラゴン桜公式副読本 16歳の教科書 なぜ学び、なにを学ぶのか』(講談社+α文庫)
「中高生時代にこの本に出会いたかった」、「16歳のときに読んでいれば、世の中の見え方が変わっていたかもしれない」など、大人の読者の声が多数。今から読んでも、決して手遅れではない!

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