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過去に発売した『ドラゴン桜』の公式副読本「16歳の教科書 なぜ学び、なにを学ぶのか」(講談社)が文庫版となって4月21日に講談社+α文庫より発売した!まだ読んだことがない人も多くいるのではないだろうか。
本書は国数英理社+課外授業としてその分野のスペシャリストが講師となって、人生に効く特別講義を載せたものとなっている。発売を祝して一部ためし読みとして、特別に理科の講師を務める科学作家である竹内薫氏の授業を公開する!「物理学をやっていくことで、その人の人生観や生き方まで変わっていく」と語る竹内氏の真意とは何か。その前に龍山高校、特進クラス担任の桜木の開講の辞を受けるとしよう!

開講の辞

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なぜ学び、なにを学ぶのか

 

16歳のきみに聞きたいことがある。
 きっときみはいま、「自分も高3になったら受験勉強して、どこかの大学に行くんだろうな」と思っている。ひょっとすると、もうなんとなく志望校を決めているのかもしれない。
 それできみは、なぜ大学に行くのだろう?
 親や先生が行けというから?
 友達も行ってるから?
 高卒では就職に不利みたいだから?
 もし、きみが「たったそれだけの理由」で大学に行くというのなら、行く意味なんかない。
なぜなら、これらはすべて「自分の外にある理由」だからだ。
 考えてみてほしい。親や先生、それから友達に自分の人生を決められるなんて、きみはそれでいいのか?おかしな話だと思わないのか?
 そして「大卒じゃないと就職に不利だ」というのもウソだ。高卒はもちろん、中学卒業後に職人の世界に入り、そこから誰にも真似できないような素晴らしい業績を挙げている人は、世の中ゴマンといる。
 要するにきみは、「ただなんとなく、みんなそうしてるから」大学に行こうとしているのだ。
 そしてきみは「ただなんとなく、みんなそうしてるから」勉強しているのだ。
 あれほどきみたちを悩ませる国語も数学も英語も、そして理科も社会も、そんなあやふやな理由で勉強しているだけなのだ。
 もちろん、大人たちも勉強はする。
 ビジネスマンがマーケティングの勉強をしたり、弁護士が法律の勉強をしたり、コックさんが新しいメニューの勉強をしたり。
 でもこれらは、彼らにとって今日の仕事、明日の仕事に必要な勉強ばかりだ。勉強する理由、勉強しなければならない理由は、しっかりとある。
 だから大人たちは、国語も数学も勉強しない。せいぜい英会話スクールに通う程度で、物理や地理を勉強しようとする大人なんて、ほとんどいない。そんなもの、今日や明日の仕事にはなんの関係もないからだ。
 さあ、問題はここだ。
 きみたちはなぜ、大人たちもしないような勉強をしているんだろう?
 きみたちは学校で、なにを学ぼうとしているのだろう?
 もし、きみたちが高校3年生になったら、こんなことを考える余裕はなくなる。その時間があったら、ひとつでも多くの単語を覚え、ひとつでも多くの計算式をこなすことが求められるようになる。
 だから、16歳といういま、きみたちに真剣に考えてもらいたい。自分が勉強する理由、そして自分が勉強するものの正体を。
『ドラゴン桜』の舞台である、我が龍山高校には、素晴らしい教師陣が揃っている。国語の芥山龍三郎、数学の柳鉄之介、英語の川口洋、理科の阿院修太郎、そして社会科の桜木建二だ。
 今回は、この教師陣の紹介のもと、全国からさらに素晴らしい超一流の講師陣に集まっていただいた。いずれも本を出せばベストセラーとなり、塾を開けば欠員待ちの行列ができ、テレビや雑誌にも引っ張りだこのスペシャリストたちばかりである。
 そして彼らに、特別講義を開講していただいた。
 テーマはズバリ「なぜ学び、なにを学ぶのか」である。
 なぜ、国語を学ぶのか。数学なんか勉強して、なんの役に立つのか。英語なんか翻訳機があればいいじゃないか。物理を知って、なにが変わるというんだ。社会のことなんて、どうでもいいじゃないか。
 そんな思いは、この特別講義の終了後、すべて吹き飛んでしまうだろう。
 16歳のきみたちは、もう子どもではない。
 そして残念ながらまだ、大人ともいえない。
 子どもの季節が終わり、大人の人生が始まったいま、きみたちに本書を贈りたい。
 この一冊には、きみの人生を変えるパワーがある。

龍山高校 特進クラス担任 桜木建二


イラスト阿院
龍山高校理科教師 阿院修太郎による竹内薫氏の紹介

一般に、理系はアタマが固いというイメージがある。しかし、よくよく考えてみると世界を驚かせるような大発明や大発見は、みな理系の偉人たちによるものだ。コペルニクスの地動説、ニュートンの万有引力の法則、エジソンの白熱電球、そしてアインシュタインの相対性理論。いずれも理系から出てきたものである。
 そこで今回、理系のやわらかアタマを学ぶため、テレビでも活躍する科学作家の竹内薫先生に講義してもらった。理系と文系の両方を熟知する竹内先生は、「理系のほうが何倍も柔軟な発想が求められる」と断言する。はたして、その理由とは……?

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特別講師 ベストセラー科学作家・竹内薫氏

小学生のころ、理科は楽しかった!

小学生のときは理科が大好きだった。
 菜の花やメダカの観察、校舎の屋上での天体観測、そしてアルコールランプやビーカーを使った実験。小学校の理科室は、いつも賑やかな雰囲気に包まれていた。
 ところが、中学生になると理科が楽しくなくなった。高校生になるころには、ますます嫌いになってしまった。
 ……こういう人はけっこう多いんじゃないでしょうか。
 かくいう僕もそのひとりで、小学生のころは杉並区の科学館という施設に通う、典型的な科学少年でした。
 また、模型飛行機をつくったり、子ども向けの学習キットを買ってきてラジオを組み立てたりといった、これまた科学少年お決まりのパターンで、ほんとうにワクワクしながら遊んでいました。理科の授業も教材も大好きでした。
 ところが、中学生になると理科全般が苦手になるんですよ。
 覚えることは多いし、授業は退屈になるし、小学校時代にあったワクワクやドキドキが急に薄れてしまうんですね。相変わらず宇宙のことなんかにはものすごく興味があるんだけど、理科という科目には苦手意識がついてしまった。
 だから僕は、さいきん盛んにいわれている「理系離れ」についても、その気持ちがよく理解できます。これは学ぶ側の気持ちもよく理解できるし、同時に教える側の気持ちについても理解できる。
 というのも、僕は以前、大学の非常勤講師をやっていたんですね。
 それで、ある時を境にしてガクッと物理なんかの基礎が抜け落ちちゃった、という印象があるんです。
 僕が非常勤講師を始めたのは30代の中盤くらいだったのですが、最初の3〜4年は大丈夫だったんですよ。普通に講義が進められた。
 ところが、ある年から急に学生たちがガラッと変わったんですね。
 物理の基礎知識がないというのもそうだし、授業中の雰囲気というか、ざわついたり、集中力がなかったり、そのへんから変わってしまった。
 ああ、これは大変なことになるぞ、と思いましたね。
 資源のないこの国で理系離れが進んでいったら、国力はみるみる衰えていく。どこかでそれを止めないといけない、という問題意識はいまも強く持っています。

理系離れの原因はどこにある?

じゃあ、どうして理系離れが進んだかというと、僕はやっぱり先生だと思います。
 中学や高校の先生たちが教える力を失っている、というのが僕の持論です。
 たとえば物理でいうと、『ドラゴン桜』にも阿院修太郎という面白い教師がいますが、アインシュタインの相対性理論なんかは、物理の中でも特に面白い分野なんですよ。それから宇宙の話なんかも非常に面白い。
 このあたりの面白さをうまく生徒に伝えられず、教える以前の「興味を引く」という段階で失敗しているんじゃないかと思うんです。
 僕の場合は幸いなことに、高校でもう一度理科を好きになることができたんです。
 これはいまでも覚えているのですが、高校のとき先生が、授業中に面白い実験をやってくれたんですよ。
 まず、ドライアイスが入っている筒みたいなものを用意する。
 それを教壇の机の上に置いて、指先でピンッと弾く。すると、筒の下からドライアイスが吹き出しているものだから、スーッと流れるように走るんですね。
 これは抵抗の実験で、摩擦のない状態というものを再現したものでした。
 こうやって文字にしながら考えると、非常に単純な実験です。でも、実際にそれをやるのとやらないのとでは、歴然とした差が出るんです。
 きっと僕も、ただ教科書に「ドライアイスを入れた筒を押すとこうなります」と書いてあるだけだったら、興味をもてなかったと思います。
 大切なのは教科書にある小難しい話を、面白い実験の形で再現することなんです。そうすると、教科書の世界にも興味が出てくる。まさに、小学校の理科室で感じていたようなドキドキやワクワクが得られるんですよ。
 僕がこういう牧歌的というか、のんびりした授業を受けることができたのは、高校の校風もあるだろうし、先生の個性もあったでしょう。そしてやっぱり、授業のコマ数に余裕があったからじゃないかと思います。
 いまは昔よりもコマ数が少ないから、そんなことをしている余裕がないのでしょうね。ゆとり教育で授業時間を削ったことによって、逆に本来の意味でのゆとりが失われていった。そういう背景があるんじゃないでしょうか。
 僕の通っていた高校は、ほんとうに自由でした。
 まず、受験勉強みたいなものが一切なかったんですね。
 先生たちは受験テクニックなんか、ひとつも教えてくれない。授業でも、その先生自身が興味のある分野を徹底的にやるんですよ。
 たとえば地学の場合だと、やたらプレートテクトニクス(プレート理論)をやるんです。でも、当時はまだプレートテクトニクスは教科書にも載っていない話なんですね。だから、大学受験では絶対に出ない。なのに延々とやるんですよ。
 地理の先生は地理の先生で、しきりに地図のつくり方についての、かなりマニアックな授業をやる。
 そういうのが楽しかったんですよね。もちろん受験への焦りはあるんだけど、先生がそんな調子だから自分でやるしかない。それで自分で勉強していく。
 ただ、そういう授業を通じてたっぷりと「好き」にさせられているし、楽しさを知っていましたからね。だから受験勉強にも意欲的に取り組めたんだと思います。
 だから、『ドラゴン桜』でもそうだけど、やっぱり「興味をもたせる」ための努力が中学や高校の先生たちに求められているし、学生たちにももっと積極的に「関心をもつ」ということが必要とされているんだと思います。

科学に興味をもつために

そもそも子ども(特に男の子)というのは、宇宙の話とか、ブラックホールの話とか、大好きなんですよね。
 僕もブラックホールは大好きで、中学時代には文化祭でブラックホールの模型を展示したくらいなんです。これはやっぱり、宇宙やブラックホールにある、「無限」というものに得体の知れない好奇心を抱いていたからだと思うんです。
 僕が当時ビックリしたのは、そのころ読んだ本で「宇宙飛行士がブラックホールに近づいていっても、無限の時間がかからないとブラックホールの穴の縁には到達しない」という説明があったんですよ。さらに衝撃的だったのは、「でも、その宇宙飛行士自身は、有限の時間の中で穴の中に入っていく」と書いてあるんですよね。
 これは中学生のころに読んで、最初、まるで理解できなかった。
 だって、外にいる人から見ると、無限の時間がかかっても到達できない。少なくとも、外からはそう見える。なのに、宇宙飛行士自身は有限の時間の中で穴の中に落ちていく。このふたつの相反する理屈を、どうやって両立させたらいいんだと。これはものすごく悩みましたね。
 結局、これが物理学の世界に引き込まれた、最初のきっかけだったんだと思います。
 それで、結局これこそが「相対性」というものなんですね。
 真理なんて絶対的なものじゃない、見る人によって見え方は違うんだ、ということを学んだんです。
 このブラックホールの話のように、頭がショートしちゃうような知的な状況、というのかな。そこが物理学の最大の魅力だし、僕はそれに引き込まれていったんですね。
 だから、物理でも科学でも、ただ教えられることを覚えていくだけでは面白くもなんともないんです。そこには必ず「え?」とか「あれ?」と疑問を感じる瞬間がある。「どうしてそんなことになるの?」という疑問がね。
 たとえばブラックホールの話を聞いて「へー、そうなんだ」で終わっていたら、物理を面白いと思うきっかけはゼロですよ。たとえ尊敬する先生から教わったとしても、「え、なんで?そんなはずないじゃん!」という疑問をもつことが大事なんです。
 ただ、そこで先生が「いいから覚えろ」と抑えつけるか、それとも「じゃあ、一緒に考えてみよう」と身を乗り出してくれるかで、生徒たちの好奇心は大きく変化します。
 それから最近でいえば、冥王星は惑星ではない、ということになりましたよね。
 僕たちの世代は、太陽系を「水金地火木土天海冥」と教えられてきたんです。
 で、ここでも「ふーん、冥王星は惑星じゃないんだ」だけで終わってほしくない。できれば「へぇ、偉い人も間違うことがあるんだね」「事実とか常識とか思ってることって、けっこういい加減なんだね」ということに気づいてほしい。
 そこから、理系思考の最大の武器である「仮説力」というものが生まれてくるんです。

理系の「型」と「型破り」とは?

 一般には「理系のやつらは頭デッカチで、文系のほうが柔軟だ」というイメージがあると思います。特に文系の人たちはそう思いがちです。
 でも、僕からいわせてもらえば、理系のほうが何倍も柔軟な頭を要求されるんですね。ニュートンもアインシュタインも、現在でいえばホーキング博士にしても、ただ頭がいいというわけではない。とてつもなく独創的な発想力、想像力をもった人たちなんです。
 よく、独創的な発想をもった人のことを「型破り」といいますよね。
 ところが、ほんとうの意味での型破りになるためには、まずは「型」を身につける必要があるんです。
 たとえばピカソだって、最初はものすごく繊細で写実的なデッサンからスタートしている。これは「型」ですよね。そしてそうやって築き上げてきた型を破ることで、キュビスムにたどり着き『ゲルニカ』や『泣く女』といった名作が生まれる。
 柔道の選手だって、最初は「型」を覚える。それである程度は強くなっていくんだけど、世界選手権に出るような選手は、ある段階で「型」を崩すんですよ。型通りにやっていたら、相手にも簡単に見破られるわけですからね。だからオリンピック級の選手はそれぞれの個性をもっている。「型」を破っていったわけです。
 このような感じで、世の中のすべては「型」の形成と、「型破り」という突破によって成長していくものなんですね。そして、なによりも「型」と「型破り」が求められる分野こそ、科学なんです。

 それでは、科学における型破りとは、どんなものなのでしょうか?
 ズバリ、「仮説」です。
 定説(一般社会では「常識」といってもいいでしょう)というのは、すでに固定化された「型」のことです。
 それに対して、仮説というのは流動化しているもの。固定したなにかにアクションを加え、流動化させていく。それが仮説なんです。
 でも、仮説というアクションを起こすためには、まずは定説の部分をしっかり理解しておかなければならない。
 しかも、仮説とはただの思いつきのことではありません。
 仮説というのは、常に「検証」とセットになっています。仮説があって検証がある。だからこそ「証明」ができるのです。
 その意味でいえば、中学や高校で習う物理や科学は「型」なんです。いま、みなさんは型をマスターしている段階で、ここを通過しないことには「型破り」ができない。いまはちょうど柔軟性のベースを整えている段階なんですね。


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日常生活に「仮説と検証」を

この「仮説と検証」は、そんなに難しいものではありません。
 たとえば、もっともシンプルな仮説と検証は、数学の証明問題です。いくつかの前提条件から、ひとつの結論を導き出していく。あれは仮説と検証というステップの、いちばんシンプルな例ですね。
 日常生活の中でいえば、僕がやっていたのは模型飛行機ですね。プラモデルじゃない、バルサ材という軽い木材と薄い和紙みたいな紙を使った模型飛行機。
 これをつくるときは、一応キットみたいなものがあって、それを組み立てていくわけです。小さいながらもエンジンをくっつけて。
 そうすると、上手に飛ばそうと思ったら、たとえばエンジンはどうやってかかるんだろうとか、主翼と尾翼の関係とか、いろんなことが関わってくるわけです。試行錯誤して、それこそ仮説と検証をくり返していく。これは紙飛行機だって同じですよね。
 つまり、飛んでいるのは小さな紙飛行機なんだけど、その紙飛行機を飛ばしているのは宇宙全体を覆う科学的法則なんです。
 いわば、紙飛行機に乗って世界を飛び、宇宙を飛べる。
 科学や物理には、そんな面白さがあるんですね。
 それから、僕の時代にはラジオをつくるのも人気でした。これもキットが販売されていて、このパーツを入れるとこうなるけど、あれを入れるとああなる、みたいなことがいろいろあるんですね。そこで電気抵抗なんかについて学んでいく。これも仮説と検証のくり返しで、いろいろ試行錯誤していくんですよ。
 だから、みんなもテレビゲームで遊んでいるとは思うけど、大事なのはその「中身」なんですよ。
 いまだと、自作パソコンなんかがそれに近いのかな。
 もうひとつ、意外な例を挙げましょう。僕は作家でもあるのですが、ここでも「仮説と検証」は活かされているのです。僕は本を執筆するとき、まず目次からつくるんですよね。かなり丁寧な目次で、ここは決して手を抜かずにつくっていく。目次とは「仮説」であり「型」なんですね。
 そして、仮説としての目次さえできあがれば、もう本の半分くらいが終わったことになるんですよ。目次ができあがるということは、本の構成もできているわけだし、そのつながりも見えている。結末までしっかりと道筋ができている。
 すると、この資料が必要だとか、ここは取材をしたほうがいいとか、仮説を証明していくうえで必要な条件も見えてくる。
 もちろん、仮説とは流動的なものですから「検証」していく過程で、たとえば予定していたこの章はなくしてしまおうとか、こっちの章に新しいエピソードを加えるとか、そういうことはアドリブで対処する。これが「型破り」の作業です。

「99・9%は仮説」の意味

最近、地球温暖化の問題が深刻化しています。
 そして森林保護からハイブリッドカー、さらにはクールビズまで、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素の排出量を減らそうと、世界各国でさまざまな省エネへの取り組みがおこなわれています。
 しかし、二酸化炭素が増えたから地球温暖化が起こっている、というのは大きな仮説にすぎません。もしかすると、(なにか別の原因で)地球温暖化が起こったから、二酸化炭素が増えているのかもしれないのです。地球温暖化については、なにが「原因」でなにが「結果」なのか、科学的に立証されたものはないのです。
 いきなりこのような話を持ち出したのは、もっと科学的な視点で物事に接してほしいからです。
 世間で常識とされていることの大半は、いや99・9%は仮説にすぎません。物事を思い込みで判断していると、とんでもないことになります。
 たとえば、ニュートンの時代には、もうニュートンが宇宙のすべてを語り尽くした、と思われていたんですね。
 イメージとしては、ニュートンがぐるっと円を描いて「これが宇宙だ」と宣言する。そしてみんなは、なるほど、宇宙はこうなっているのかと感心する。それを事実として受け入れる。
 ところが、のちに相対性理論を唱えたアインシュタインがニュートンよりももっと大きな円をぐるっと描くわけです。そして「これが宇宙だ」と宣言する。
 つまり、ニュートンの宇宙より、アインシュタインの宇宙のほうが大きくなった。
 もう少し別の表現をするなら、科学というのは「世界を網ですくっていく作業」に近い気がします。
 ニュートンという漁師さんがいて、海に出て網を投げる。この網は、少しだけ網目が粗いんですね。
 それでも、たくさんのものがすくえるから、「おお、これが宇宙か」と喜ぶわけです。
 そしてアインシュタインという漁師さんは、もう少し目の細かな網を海に投げる。
 そしてニュートンよりたくさんのものをすくいあげて、「おお、これが宇宙か」と喜ぶ。ニュートンの網では抜け落ちていたたくさんのものが、説明できるようになる。
 そうやって網目が少しずつ細かくなり、より多くのものがすくえるようになっていく。でも、決して「これ以上細かい網はない」というゴールはない。それが科学なんです。

人間の知識の限界はどこにある?

そうなると、人間の知識の限界はどこなんだという話になりますよね。
 これについては、ウィトゲンシュタインという哲学者がすごく深いところまで考えていて、彼は「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言うんですよ。
 ここでの「語りえぬもの」とは、言葉や思考を超えた世界のこと。
 それで言葉というのは日本語や英語のような日常言語もあるし、数字や数学の記号なんかもある。そして、これらによって語りえぬものについては、人間には考えられない。
 僕は、そういう「語りえぬもの」は確実に存在すると思っています。
 たとえば、人間は色というものを三原色で見ているんですね。
 赤、青、緑の組み合わせで、さまざまな色を見ているのが人間の目です。この原理はテレビのブラウン管でも利用されていて、ブラウン管の画面をよく見ると、赤、青、緑の3色でつくられています。
 ところが鳥の目は、四原色なんです。人間が見えない紫外線まで、鳥たちは見ている。だから「鳥の目で見た花の色」などは、われわれにとって完全に「語りえぬもの」です。
 また、ネズミを迷路に入れて実験すると、ある程度は学習することができます。たとえば、右の次は左、左の次は右、というのを交互にくり返すような迷路だと学習できる。
 ところが、曲がり角が、2、3、5、7、11、13番目、つまり素数のときに曲がる、という迷路は学習できないんですよ。なぜならネズミには素数という概念がないんですね。
 人間の脳は素数を理解することができるけど、ネズミの脳には素数というものがインプットできないんです。だから、ネズミにとっての素数は「語りえぬもの」なんです。
 このように、僕たち人間にも「語りえぬもの」はある。
 ただ、そのうちの一部が、今後人間の知識の枠組みに入ってくるのかもしれないし、永遠に入ってこないのかもしれない。そこはわかりませんし、いまは「語りえぬもの」ですから「沈黙しなければならない」のです。
 きっと、高校時代くらいだと「もう自分は全部わかった」と錯覚するものだと思います。これは物理にかぎらず、人生とか世の中とか、いろんなことについて。
 でも、その「型」が崩れる瞬間は必ずくるし、こないことには成長はないんです。いつか型が通用しない世界に出て、それまでの型が音を立てて崩れていく。そして眼前には、新たな地平が広がる。そのくり返しが人生だと思うんですよね。
 そして、大学に進むと、自分の専門分野について「語りえぬもの」と「語りうるもの」の境界線がわかるようになってきます
。  そして、「これはいまは境界線の向こうにあるけれど、ここを証明できれば境界線の内側に入ってくる」ということがわかる。研究者というのは、そういう境界線の最前線で勝負している人たちなんです。

人生観を変えてくれる物理学

それから物理学の中には「間主観性」という考え方があるんですよね。  これはどういうものかというと、普通は物事を考えるとき、自分の視点である「主観」と、それから全員の視点である「客観」というもので考えますよね。主観的な意見だとか、客観的な事実はこうなっているとか。
 でも、実際には「全員の視点」なんかないんですね。
 あるのは個々の主観だけで、ほんとうの意味での客観なんかない。よくいう客観的事実みたいなものは、ただの幻想なんです。
 それでも、個々の主観しかないというのでは、みんながバラバラになってしまう。
 そこで、主観でも客観でもない、ちょうど主観と客観の中間くらいの視点を想定しないといけない。それが「間主観性」というものです。
 これはもともと哲学の用語で、物理学でも、たとえば原子や電子などを観測する場合の「観測する側」と「観測される側」の関係を考えるときなどに登場します。
 さて、この考え方が頭にあると、どうなるか。
 まず、人の痛みがわかるようになるんです。
 たとえばいじめの問題にしても、いじめられる側の立場に立って物事を考えることができるし、いじめる側に立って考えることもできる。
 よく、いじめ問題の解決策として「思いやり」が大切だといいますよね。でも、思いやるというのは、あくまでも主観なんです。
 こちらの立ち位置は変えず、相手を見ているだけ。これでは根本的な解決にはならないでしょう。
 そして「いじめはよくない」「いじめはカッコ悪い」というのは客観であり、道徳的な幻想なんです。これも大して効力のあるものではない。
 必要なのは、ちょうど主観と客観の中間くらいの位置(間主観)に立って、物事を考えることができるイマジネーション能力なんですよ。
 これさえあれば、社会に出ても上司の立場や部下の立場で考えられるし、お客さんの立場に立っても考えられる。
 意外かもしれませんが、物理学をやっていくことで、その人の人生観や生き方まで変わっていくものなんですよ。


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科学の目でニュースを読もう

新聞を読んでいるとき、何気なくテレビのニュースを見ているとき、ちょっと科学の目を意識してそれを考えてみましょう。
 たとえば、帰省ラッシュのニュースがあったとします。ものすごい交通渋滞が起きていて、高速道路が大変なことになっている。
 あれを物理学の目で見ると、先頭の車の後ろに衝撃波が見えてくるんですよね。
 どういうことかというと、まずそれぞれの車をものすごく小さな粒だと考えるんです。ちょうど、空気の分子みたいなものとして考える。そして衝撃波というのは、空気の分子の中をものすごい密度の変化が伝播していくことなんですよ。
 先頭の車がちょっとブレーキを踏む。そうすると2台目の車もブレーキを踏む。3台目もブレーキを踏む。そうやって後ろにドドドドーッと減速の波、衝撃波が伝わっていくんですね。ちょうど水面に石を投げたとき、波紋が広がっていくような感じです。
 そして最終的に100台目の車は停止してしまう。こうやって交通渋滞は起こるんですね。
 おかげで物理をやっている人間は、渋滞のニュースやシミュレーションを見ると、そこで衝撃波に関する方程式をイメージしてしまうんです。
 だから新聞なんかから、いろんなことを想像してほしい。交通事故や航空事故のニュースも、ただ「怖いね」とか「危ないね」で終わらせず、どうしてその事故が起こったのか、それを防ぐ手立てはないのか、といったことを考える。天気予報でも、地球の周りをグルグル回っているはずの気象衛星が、どうして時間ごとの雲の動きを定点カメラのように撮れるのか、といったことを考える。
 それから新聞には子ども向けの科学欄みたいなものがあるんですね。これは大人が読んでも面白いし、高校生にはピッタリだと思いますよ。

「僕は頭が悪い」も仮説にすぎない

世の中は、いろんな思い込みによって支配されています。
 たとえば、「頭がよくないと東大には入れない」というのだって、誤った思い込みです。僕自身の周囲を考えてみても、ずっと塾通いで東大に行ったヤツは少なかった。むしろ、塾なんてほとんど通わずにスポーツをやっていた人間のほうが多かった気がします。
 あとはIQなんかも思い込みのひとつですね。
 歴史に名を残すような人が、みんな子どものころから神童だったかというと、そういうわけではない。アインシュタインなんかはいい例だけど、ゆっくり自分のペースで勉強している人は、周囲からはのろまに見えるかもしれない。でももっと長いスパンで考えてみると、それがものすごい天才だったということはよくあることなんです。
 そして、いちばんいけないのは「自分は頭が悪い」という思い込みであり、仮説です。
 そう思った瞬間、どんどんモチベーションが下がってしまう。
 だから僕は「どうせ僕は頭が悪いから」と言ってる人には、単刀直入に「やったのか?」と聞きたい。
 ほとんどの場合、しっかり勉強しないうちから「どうせ僕は」と言ってるだけなんです。やる前からあきらめている。そんなことでは、伸びるものも伸びないですよ。
 もちろん、どんなに一所懸命に野球をやっても、誰もがメジャーリーガーになれるわけではない。そういう限界はあります。
 でもそれは「野球に向いてない」というだけの話で、その人には別の道があるんですよね。自分の適性や才能というのは、必ずどこかにあるはずだから、それを見つけるまでは絶対に「どうせ僕は」なんてマインドになってほしくないですね。

もっと物理を極めたい人へ

さて、ここまで「科学が苦手な人」に向けて、科学や物理の基本的な考え方や面白さについて、できるだけわかりやすく説明してきました。
 そこで最後に、いま高校生で物理が好きな人、これから真剣に物理をやっていきたいと思う人に、ひとつアドバイスを送りたいと思います。
 それは、数学の微分積分をしっかりやっておくことです。
 まず、大学に入ってからの物理学というのは、微分積分ができないとなにもできないような学問なんです。公式も、すべてが微分積分でつながってる。
 それなのに、高校で力学の公式を教えるときには「微分積分を使ってはいけない」と学習指導要領で定められているんですね。これは日本の教育システムの大きな欠点です。
 もちろん、生徒たちはそれと同じ時期に数学の授業で微分積分を習っています。微分積分そのものが高校生には難しすぎるというわけではない。
 しかし、数学の微分積分にも「物理の話を出してはいけない」というルールがあるんですね。
 本来、微分積分というのは物理学のフィールドから生まれているんですよ。
 だって、微分積分を発明したのはニュートンですからね。物理に必要だから発明された数学が、微分積分なんです。
 その結果、高校で習う力学の公式はすべてバラバラになってしまうんです。
 Xの公式はこれ、Vの公式はこれ、というふうに。それで苦しいものだからグラフを使って説明するけど、あれはかなり無理のある説明です。微分積分を使えば、Xを微分したら速度はVになります、というようにつながっていくんですね。
 ですから、このあたりを頭に入れながら微分積分をやっていくと、モチベーションも上がるだろうし、大学に入ってから、ものすごくラクだと思いますよ。

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    竹内 薫 (たけうち・かおる)

    1960年、東京都生まれ。サイエンス作家。東京大学教養学部、同理学部物理学科卒業。カナダ、マギル大学大学院博士課程修了。理学博士。科学評論、エッセイ、 講演などを幅広くこなす。ニュース番組でコメンテーターを務める。 『99.9%は仮説』(光文社新書)、『怖くて眠れなくなる科学』(PHP研究所)など著書多数。

■書籍紹介

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